窓から差し込む春先の陽光が、温かく心地よかった。
私はこの季節が一番好き。
ただ、困るのはこのやわらかな日差しは、かなりの眠気を誘うことで……。退屈な授業のときは特にそう。眠気がいつもの倍くらいの勢いで襲ってくる。
今もまた、授業中の先生の声が、すでに意識の遠くで響いていた。
「――であるからして、保元の乱の発端は」
そういえば今は日本史の授業中なんだっけ。
だけど、もうこの眠気には抵抗できなかった。
ああ……先生の声がどんどん遠くなっていく……。

桜色のトンネルを、どこか遠くへ、遠くへと歩いていたような気がする。
遠く?
行き先もわからないというのに?
そのとき、私はどこに向かっていたのだろう。
目が覚めたとき、私はどこか山の中なのだろうか、竹林に囲まれていた。かすかに肌寒さを覚える空気が、凛と張りつめていた。
そして目の前にいるのは、日本史の教科書でしか目にしかことのない、そんな古くさい装束に身を包んだ少年。
だけど、敵意はない。むしろ、少年は優しく慈愛に満ちた眼差しを持っていた。
それは私が兄様と呼ぶ少年。
兄?私はひとりっ子のはずなのに……でも、目の前にいるのはたしかに兄――そう、私は彼の名前を知っている。皆が遮那王と呼んでいた少年だった。
兄様は優しい眼差しで、私を見詰めてくれている。
兄様はいつも笑顔で私の頭を撫でてくれた。
小さい、まだ子どもの手のひら。なのに、私にはそれがとっても大きく、たくましく感じられた。
あのころはまだ無邪気で、そんな些細なことだけで幸せだった。
優しい兄様。
兄様と一緒にいられる。それだけで幸せだった。
それにもうひとり……めったに笑わない身体の大きな少年がいた。
私にさえ、笑顔を見せることなど絶対になかったけれど、不思議と恐くはなかった。
少年はとても強くて――

「無理だ……」
「どうして?私、今度こそ絶対勝ってみせるんだから」
私は小さな木刀を手に、いつもそうやって突っかかっていた。そしてそのたびにあっけなく弾き飛ばされていた。
少年はむすっとした表情をしながらも、半泣きの私が疲れ切って、へたり込むまで、何度でも相手をしてくれた。
「ははは、お前は相変わらず気が強いな。でも、鬼若にはかなわないよ。この兄でさえ勝つことができないのだからね」
兄様が“鬼若”と呼んだ少年。
私がその少年と再会するのは、それからずっと、ずっと後のこと。
京の五条大橋。少年はずっと会わない間に、僧形で道行く侍の刀を奪う、五条の鬼と呼ばれていた。
「歩を止めよ。貴様は、『五条に住まう鬼』を知った上でこの橋を訪れたか?それとも、知らいで来たか?答えよ。俺は熊野の別当湛増の子。叡山西塔に住む武蔵坊弁慶!」
弁慶?それが今の“鬼若”の名前。
その名はそれこそ日本史の教科書か、物語の世界でしか聞くことのない名前だった。
なのに、私は今、その弁慶と対峙している。あの山で、鞍馬の山で毎日のように稽古に明け暮れた日々が蘇る。
「……どうしても、やらなければならないんだな」
「刀を置いてゆかぬのであれば、問答無用!」
ぎらりと光った弁慶の刃を、私は空に向かって思いっきり飛び上がり、かわしていた。かわされるとは思っていなかった弁慶は、あわてて私の姿を探した。
だが、私はそれよりも速く地に降り立つと、脱兎の如く弁慶の懐へと滑り込む。そして手にした笛を弁慶の喉下にぴたりとあてがった。
「これが刀であれば、おまえの首は飛んでいるな」
「……ぐううっ!!」
弁慶は悔しげに、獣のうなりのような声をあげた。
どんなに悔しがろうとも、勝負はあったのだ。もう私はあの頃の小さな少女ではなかった。
「もう……これ以上無益な戦いは止めだ。退いてくれないか」
「……俺の負けだ」
弁慶の顔から険が消えた。がくりとうなだれる。
「完敗だ……おまえの名は?」
私の名……?
「私の名は義経。源九郎義経だ」
すらすらとその名前が口をついた。そう――私は義経だった。
「……そうか、貴方があの源氏の御曹司……!」
「そなたとは縁がある。運命を共にする縁……。この身にいかなる禍が訪れようとも、私についてきてくれるか」
「御意。その禍、私が一命をもってして引き受けましょう」
その目は幼い頃、一緒に過ごした、あのぶっきらぼうだけど、頼もしい、“鬼若”の目だった。
だけど、鬼若とともに過ごした兄はもういない……。兄は……遮那王は密かに放たれた、平家の手の者に討たれてしまったのだ。
――私の目の前で。
もう昔には戻れない。


――これは夢?
そう、きっと夢に違いない。ちょうど授業で先生が話をしていたところだもの。
今度はどこ……?

奥州平泉。京の争乱などとは縁遠く、自然も豊かで、どこか別天地のような場所。
そこに私はいた。
その別天地で、私は性別を越えた美しさの男に出会っていた。
「ふふーん、あなたですか」
男は無遠慮に私の顔をのぞきこんだ。
「秀衡様のもとにお客人が来られていると、耳にいたしましたが……このような見目麗しき方とは、ね」
男の名は佐藤忠信。奥州藤原氏当主、藤原秀衡の家臣だと名乗った。
「それにしても……」
「……まだなにか?」
「いえ、気に障ったのなら謝りましょう」
「だから、なにかと訊いているのです」
「それなりに腕の立つ武人の方だと伺っていたのですが……噂とはあてにならぬものですね。かように細腕で、弓の一つも引けましょうか」
「んなっ!」
「いっそ、女にでも産まれていれば、良い白拍子にでもなれたでしょうに」
「ぶ、無礼な!」
「おっと、いきなり刀を抜く気ですか?白昼堂々と?これはこれは、随分と気が短い方のようですこと。このような、あからさまな挑発に乗るようでは、実力のほども知れたものか……くすっ」
「……っ!」
「ふふふふ……そう怒られますな。戯れ言、戯れ言」
「戯れ言で済むことと済まぬことがある!武人として、馬鹿にされておめおめと……」

だが、忠信はもはやこちらの話など聞いていなかった。牡丹の花を一枝、手折って香りを楽しんでいた。
私はその振る舞いに、やり場のない怒りを感じていた。
「……よい香りだ」
「聞いているのか!?」
「無粋なことはやめましょう。怒りはその麗しいお顔を醜く変えてしまいますよ?……では、これにて、勇ましいお方」
私は去って行く忠信殿の背中を、呆気にとられたまま黙って見送るしかなかった。
最初の印象は最悪だった。
なのに――
「本日も一手御指南よろしくお願いいたします」
佐藤継信――“あの”佐藤忠信の兄だ。もっとも弟とは雲泥の違いで、礼儀正しい方だった――がゆっくりと立ち上がった。
私は――義経は、忠信の言葉が、ずっと気になっていたのかもしれない。あの日から、奥州一との誉れも高い、佐藤継信の道場に通うようになっていた。少しでも強くなるために。そんな私の姿を、つまらなそうに見る目があった。忠信だ。
「それにしても、よく毎日飽きもせずに通われるものですね」
「あなたには関係がないでしょう」
「せっかく心配してさしあげているのに……。はあ……また今日も兄上相手に、無様な姿をさらすことになるのですね」
「だから、あなたには関係ないと!」
そのとき、突然継信が口を挟んできた。
「ならばせっかくです。忠信と手合わせをしてみては」
「は?兄上、ご冗談を」
「冗談ではない。おまえもたまに身体を動かすのも悪くなかろう」

木刀を持って対峙すると先ほどまでの柔和な表情から一転、継信が武人の顔になったのがわかった。
「……継信殿、いざ、参ります」
「お相手いたしましょう」
同時に前進する二人。
次の瞬間、二人の木刀が眼前で激しくぶつかり合った。
そして稽古が終わり――
辺りを気にしながら、私は濡れた手ぬぐいで汗を拭いていた。
そこここにアザができている。継信に打たれたあとだ。このアザの数が、実力の差を物語っていた。
白肌に比してアザが妙に目立った。
拭くと、傷口にあたり思わず顔をしかめてしまった。
「私は強くなっているのだろうか……」
「心配しなくとも、あなたは十分に強くなっておられますよ」
「……なっ!」
誰もいないと思っていたのに、意外な声がした。咄嗟に着物をかき寄せて、胸もとを隠した。
と、同時に不自然なくらいに頬が熱を持っていくのがわかった。
「……な、なんですか、その反応は。まるで生娘のように……」
忠信は私が女であることを知らないんだから、彼の戸惑いは当然だった。だけど……私だって、男性に肌を露わにしたことなどないんだから、そのときの恥ずかしさは想像できるだろう。
「な、なんでもないっ!」
動揺を隠すように、私はぶっきらぼうに言い放った。


――夢にしてはどこかで見たような……これを既視感というんだろうか。
私はずっと昔、それこそ気が遠くなるほどの昔に、これと同じ光景を繰り返していたような気がする。
そんなことあるはずもないのに……。
兄遮那王、弁慶、佐藤継信・忠信の兄弟……そして、私の周りにはまだまだたくさんの人がいた。
私に――義経にその想いを託してくれた人たちが。


後編に続く